ほいっぷ

Aromantic Asexual A-spec 一人の全ての人

もう眠い(仮タイトル)

「うわぁ、私がぐずぐずと書き損ねていたことを書いてくれている......」と思い、嬉しくなりました。

 

https://seasidesunset.tumblr.com/post/692110320352772096/an-aroace-goes-to-the-bookshop-%E6%9C%AC%E5%B1%8B%E3%81%AB%E8%A1%8C%E3%81%8F%E3%81%A8%E6%B3%A3%E3%81%8D%E3%81%9F%E3%81%8F%E3%81%AA%E3%82%8B

seasidesunset.tumblr.com

 

そうだよなぁ、本屋に行くのって辛いよなぁ。

 

昔はそうじゃなかったんですけどね。

 

いや、なんだかんだ言いつつも本屋にはちょくちょく行くんですけども。でも行くときの心持ちが全く変わってしまったというか。

 

かつての私にとって本屋というのは、新しい物語に出会える喜びが確約されてるような場所だったのですが、今となっては「どうか今度こそ面白い本があってくれ」という祈りと「どうせ何もないよ」という諦めとのせめぎ合いを感じながら向かうような場所になりました。もちろん理由は恋愛に限らないし、昔が良かったわけでもありません。子どもで、いろいろなものが見えていなかっただけという面は多分にあります。

 

子どもの時はそういう一つ一つを「微妙に嫌だ」と感じることもありましたが、大半は「そういうものか」「そういうこともあるのかもしれない」と内面化していました。主人公が女の子なら男の子が、男の子だったら女の子が出てきて、「思いを寄せる」ようになる。他の登場人物もどんどん「好きな相手」が出てきたり、付き合っていた過去が明かされたり、大人であれば結婚しているのが当たり前のように描かれる。まぁそんなもんかと思いながらも、でも「こんな設定にする必要があるのかなぁ?」と思うこともありました。ただ小学生向けの本であればいわゆる「淡い初恋」程度にとどめられており、そういうものはクィアプラトニック的に読めなくもなく、その点は気になりにくい時もありました。

 

それがだんだん、状況が変わってくるんですよね。もはや「淡く」もなければ「初恋」でもない。初恋は登場人物の「過去」として登場し、それらを経験していない者は「ピュア」と称される。決して良い意味ではなく明らかに愚弄する空気を伴ってはいたけれど、それでも私は我慢して読んでいました。「ウブ」だとされているキャラクター、「未熟」と説明されるキャラクター......自分だって状況としては同じはずなのに、棚に上げて一緒に馬鹿にしながら読み進めていました。内面化って恐ろしいね。*1

 

私はaroace自認と関係なしに、一時期まったく本が読めなくなったことがあります。一応自認の時期と被るのですが、原因はまた別のところにあります。それでその時期を脱して「さぁこれからはたくさん読むぞ」と思ったら、読める小説なんかほとんどないことに気がついたんですよね。

 

それでほとんど読まなくなりました。翻訳ものはごくごく稀に読むことがありますが(翻訳ものでもそれ「だけ」では安心できないのだけれど)、読むのは専ら専門書、伝記、ノンフィクション、エッセイなど、とにかく小説以外のものばかりです(フィクションでないからといって安全とは言い切れないのだけれど)。もちろん面白いし楽しいのだけれど、本当は小説も読みたいですよね。もちろんaro/aceだからといって、皆が皆小説を読めなくなったというわけではないでしょう。ただ私の場合はそうだというだけです。

 

なかには恋愛や性愛が描かれていない、もしくは中心的ではない作品だってあるとは思います。でもそんな「例外中の例外」を探す余裕なんかないし、もう信頼がないんですよね。「恋愛や性愛を無理やり描かなくても物語は成立するんじゃないの?そういうものだって書けるはずだよね?創作物なんだからいくらでもやりようがあるよね?なんでやらないの?」という疑念を片隅に置きながら、それでも内面化しつつずっと読み続けて、結局諦めてしまいました。*2

 

『無垢なる花たちのためのユートピア』は作者の方がaro/ace当事者であり、まだあまり検索していませんが良い評価もいくつか見たので、いずれ読んでみたいなと思っています。まぁその......ね。私にも好みというものがあるので笑 琴線に触れるかどうかはちょっと分かりませんが(急にシビアになってしまって申し訳ない)、興味のある方は読んでみたらいかがでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

※余談です※

 

本に関することをメインに書きたかったので上には書かなかったのですが、下記引用部分についても少し。

 

自分について説明する言葉を見つけて共感できる相手を探す方法ができたことにはほっとしたけれど、そのぶん目にするいろいろなことが異性愛規範と恋愛至上主義に基づいているということに気づくようにもなった。ほかの人たちはみんなその中を流れるようにすいすいと進んでいるように見えた。地下鉄の広告や日常会話の小さな一言に傷つくことが多くなった。こう書くと大袈裟かもしれないが、そのときは少なくとも確かにそうだった。

 

全然、大袈裟じゃない。私は日々そういう細々としたものにうんざりしながら生きています。

 

でもこれについて書くのはなかなか難しくて、下書きがめちゃくちゃ溜まってるんですよね......。

 

いろいろ理由はあるのですが、超駆け足でざっくりと説明すると(もう眠いので)

 

1. 瑣末なことを話しているように聞こえる

異性愛規範も恋愛至上主義(その他のものも)ありとあらゆる場所に広く深く隙間なく根付き過ぎていて、それこそ広告とかバナーとかキャッチコピーとかの話にまで及ぶのだけれど、でもそれは瑣末だと思われて多分理解されない。

 

2. 恋愛・結婚関係の話は軽んじられる

恋愛至上主義のくせに、恋愛は馬鹿にする風潮があります。だから恋バナが辛いとか恋愛描写がどうだとかいう話をしようとするとやっぱりこれも瑣末というか、くだらないことを話しているように見える。

 

3. Aroの話は忘れられる

一番面倒なのは、aroの話をしようとするとaroの話ができなくなるということです。私の筆力と思考力の限界で書けていないだけならいいのですが(誰か書いて)、aroは基本的に「恋愛的に惹かれない」という定義があります。でもaroの話をしようとするとどうしても恋愛や結婚がらみの話になってきてしまい、細かく話せば話すほど結論が「恋愛するのも自由・結婚するのも自由」という方向になってしまう。これは恋愛ドラマや恋バナでも同じで要するに「好みの問題・選択の問題」になってしまうということです。それ自体は間違いではないけれど少なくともロマンティックオリエンテーションの話ではないし、そうこうしているうちにいつの間にか、aroの話は忘れられます。

 

4. かといって恋愛・結婚関係の話は避けて通れない

ほとんどの当事者にとってはアイデンティティに深く関わってくる出来事なので、ここをすっ飛ばして語るのは難しいのではないかと思います(少なくとも私は無理)。もちろん恋愛伴侶規範や恋愛至上主義を直接批判する時には必ずしもaro/aceを持ち出す必要はないものの、ロマンティック/セクシュアルオリエンテーションの一つとして語る時、当事者の経験を無視することはできません(しするべきではありません)

 

5. 1〜4の繰り返し

 

っていう無限ループですね。これが今私の頭の中で起きています。で、下書きが溜まっている。

 

他にもいろいろと書けていないことがあるのですが、いずれ書ければいいですね......。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:性的な描写もかなりキツくて、こちらは恋愛描写以上にキツかったです。でも当時の私は「こういうのが『いい小説』なんだ」と無理やり思い込んで、やっぱり頑張って読んでいました。こういうのが「分からないといけないんだ」と思い、なんとかその芸術性とやらを読み解こうと頑張って、結局はその分からなさを誤魔化して「こんな本を読んでいる自分はすごい」などと思っていました。今思うとめちゃくちゃ恥ずかしいですけどね笑 本当は読まなくてよかったんだよな。

*2:ちなみに創作物を完全に嗜まなくなったということではなく、ドラマや映画は今でも見ます。ほとんど英米の作品で、その中でも選んで見ているというのはありますが......。英米の作品でも恋愛・性愛至上主義は全然よく見られるのでその点に関しては何も安全じゃないのですが、小説と違って勝手にストーリーが流れてくれるので笑(小説は自分で読み進めないとそこで止まっちゃうじゃん......?)負担が減るんですよね。あと私はどうも映像を見るのがあまり得意ではないようで、結構気を散らしながら見ているのではという疑念があります。同じ創作物でも映像だったら比較的マシだと思う所以は、その辺にあるのかなと思います笑